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2013.10.23

角田市郷土資料館訪問記part1~和田家資料「内留」に見る角田石川家の奥向き~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

先日、私は角田市郷土資料館に初めて足を運びました。

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角田の町の中心部に、長い歴史を感じさせる建物があります。このお屋敷は、かつての大地主の初代と、2代目の氏家丈吉氏が明治から大正にかけて建てたもので、昭和60年に角田市が所有者から譲り受けて今日、角田市郷土資料館として開放されています。

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現在、角田市郷土資料館では東日本大震災の影響で休止していた企画展、和田家資料~「内留」に見る角田石川家の奥向き~が3年振りに一般公開(9/18~11/2迄)されています。

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こちらの企画展について、今回特別に館長の新庄屋元晴さんから2時間たっぷりとお話を聞かせて頂きました。

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とても分かりやすく、丁寧な語り口で、新庄屋さんのお話に引き込まれてしまいました。今回このような貴重な機会を頂き、しかも企画展については贅沢にも新庄屋さんの解説付きということもありまして、私は今回の郷土資料館で見て聞いたお話を訪問記として、GO!角田ブログに数部に分けて連載という形でアップしてしていこうと考えています。今日はその第1弾として、長年石川家にお仕えした和田家の歴史にスポットを当てていきたいと思います。

さて、その前に。

今回の企画展が行われているのは受付のあるお屋敷ではなく、別館という事で外に移動すると、別館の反対側に古くて大きな門が見えました。

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新庄屋さんのお話によると、こちらの門は実際の角田城門で、昔角田城から払い下げられたもので、県内でもサイズはかなり大きいものなのだそうです。そのため、写真の右側には、白い壁がありません。これは、もともとあったお屋敷にお城から払い下げられた大きな門を当てはめたからなんです。資料館の入り口である門にもちゃんとした歴史があるんですね。その後、和田家資料が展示されている建物の前へ向かいました。

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建物と言っても、こちらは蔵。しかも3棟繋がるように並んでいます。ちょっと珍しい気もしますね。角田では段々と蔵自体が減っているので、郷土資料館のこの蔵だけは後世に残していかないと、と新庄屋さんはお話してくれました。奥に見える2棟が米蔵で、手前が前蔵と呼ばれるもの。昔、田畑を氏家家から田畑を借りていた小作人がこの蔵に米を運んだのでは、と言われています。和田家資料は真ん中の米蔵の中に展示されています。

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さて、やっと和田家資料が展示されている場所に来ました。この蔵の中が展示室になっています。

ところで、和田家って一体どんなお家柄なのでしょうか?ここからは、和田家の歴史について、新庄屋さんが語って下さったお話をまとめてみます。

和田家とは?

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<尾山の方とともに伊達政宗の家臣へ>

伊達政宗公が活躍していた時代、隣の柴田町では柴田様というお殿様が柴田一帯を治めていました。お殿様のご息女に「尾山の方(おやまのかた)」と呼ばれる方がおりました。尾山の方は政宗公の側室として伊達家に迎え入れられることになりました。その際、尾山様のご希望でお附きの侍と一緒に柴田から青葉城へと上ります。そのお附きの侍が、和田家の前身である大和田家でした。政宗公の側室となった尾山様は政宗公との間にご息女、牟宇姫(むうひめ)を授かります。牟宇姫が成長すると、元和5年(1619年)に牟宇姫は仙台伊達家より、当時角田を治めていた伊達家の一門筆頭の家臣である石川家、3代宗敬公のもとへ正室として迎え入れられます。石川家は、伊達藩内では伊達家に次ぎ、ザ・セカンドのとても格式高いお家柄でした。

<角田石川家、牟宇姫のもとへ> 

政宗公没(1636年)後、牟宇姫のお母様である尾山の方は、せめて晩年は実の娘と一緒に暮らしたいとの思いから、政宗公と過ごした青葉城を後にして、牟宇姫の嫁ぎ先である角田へと下ります。この時も、お附きの侍である大和田家も尾山様と一緒に角田へと下り、石川家の臣となります。大和田家はこうして角田石川家に仕えることになりました。その後、姓の頭文字の「大」を取って「和田」へと改名しました。そして、和田家は200年以上続く角田石川家の奥向き(私生活)の面倒を見るお役職(御家老・奥年寄・奥御用人など)について、重臣として石川家を支え続けました。

それから約200年後、江戸時代後期。

<和田縫殿右衛門(わだぬいうえもん)の日記> 

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和田家の子孫で和田縫殿右衛門(ぬいうえもん)という者がおりました。縫殿右衛門(ぬいうえもん)はお殿様の奥(私生活)をお世話する役職、奥年寄(おくとしより)という役職についており、彼はとても几帳面で実直な性格で、日々の出来事を事細かに日記に綴っておりました。お城では、お殿様が政務を司る場所、今の時代でいう役所がある場所を「表」といい、お殿様が普段の生活を行う場所を「奥」と呼んでおりました。縫殿右衛門はこの「奥」の出来事について細かく日記を書いていたのです。また、内輪の内容・お話を記した、留めたものであるので、これを「内留(うちどめ)」と言います。その縫殿右衛門が書いた内留が約10年分程発見されたのです。

現在角田市郷土資料館ではこの「内留」の読解を4年前から進めており、現在は約3年分の読解が終わって3冊の解説本が出来たそうです。残りの分はこれから読解を進めていく予定だそうで、これらが角田石川家の歴史と奥向き(私生活)を紐解く貴重な資料として、角田の歴史研究に役立っていくのではないかと思います。これらの貴重な資料が今回の企画展に展示されています。

和田家は柴田から仙台へと移り、それから角田へとやって来ました。それが400年程前のお話。そこから和田家は200年以上も侍として角田石川家の家臣として石川家の家系をお守りしていく歴史を歩むんですね。とても興味深いお話で、館長さんの声にしばらく耳を傾けながら、昔の人(特に侍)の忠誠心はやっぱりすごかったんだなぁと感じました。

<角田市郷土史料館訪問記part2へつづく>


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